話は少々横道にそれますが、絵についての思い出があります。中村家には中学校の絵の先生、エレクトーン奏者はては漫画家まで芸術を生業としている人間が多いです。かくいう私は絵を描くことが好きでした。
・フジテレビ小川宏ショーにUFOの絵で出演
・プロ野球ニュースにて選手の絵が2回採用
・中2で描いた大樹の絵はオーストラリアのコンクールへ出展
と輝かしい(?)経歴があるのですよ。
ただ、その後あるときを境にイメージとおりの絵がまったく描けなくなってしまいました。小さい頃神童と呼ばれた人(おこがましい!)が成長するにしたがい平々凡々となってしまったりしますが、自分の才能に限界を感じこのとき引退(笑)を決意したのでした。ちなみに中村歯科のマスコットデザインは私です!(笑ったあなた!ですからもう引退したと・・・)
閑話休題
転換期
中学生になるとシニアに上がって野球をやっていたのですが、とにかく小学生1年生からリトルリーグ一筋で、土、日は練習か試合、髪の毛はいつも坊主、さすがに抵抗を覚えるようになりました。思春期ドまんなか!だったんですね。学校の成績もどん底まで落ちてしまったこともあったのですが、1年から2年にあがるころシニアをやめる決心をしました。
そこで今でも付き合いのある親友の福地君の所属していたバスケットボール部にほんの軽い気持ちで入部しました。今思えばこれが大きな転機だったと思います。
小学校のとき校内マラソン大会で2位、水泳の25m背泳で区の新記録を作り、中学校の走り幅跳びでは3年間連続優勝と誰よりも体力、運動神経に自信があった自分でした。他のスポーツでも何とかなるだろう!なんて甘い考えを持っていたのは事実です。しかしながらごくごく当たり前なのですがスポーツをやるにあたってやはり重要なのは基本なのです。
1年生のときにみっちり基本をたたきこまれた同級生たちにまったく歯が立ちませんでした。
また同じ学年の部員は7,8人いたのですが所謂学業のほうでは秀才軍団で、なかなか仲間に入っていくことができませんでした。このままでは自分の居場所がなくなる!という危機感からバスケットも学業も真剣に取り組むようになり、なんとか高校へいけるくらいの成績にはなりました。(追い込まれると強いのか・・?)
バスケットも元来低くはなかった身長が急激に伸び、技術はなくても飛ぶことには絶対の自信があったこともあり(リバンド専門として?)2年の夏からレギュラーとして試合に出られるようになりました。その頃にはチームの皆も仲間として認めてくれるようになりました。秋の新人戦では杉並区民大会で女子と共にアベック優勝を達成しました。しかしながら春、夏、都大会への切符は得るものの常に2位止まりでした。
高校は私立独協高校に入学しました。兄(内科医)の卒業した高校です。
当然バスケットボール部に入部しました。中学のときとは違って自由奔放なクラブでした。2年生のとき3年生がまだいるというのに主将兼部長に任命され、初めて人をまとめる側に回りました。中学生合わせると50~60人くらいの大所帯でしたからユニフォーム製作、合宿所の選定、予約等々副部長の星崎君らと気の遠くなる程忙しい日々が続きました。
大会のほうはコーチもいなく顧問が来ないことなどがしょっちゅうあって相手チームの顧問からよく怒られました。
そんなとき『責任は自分がとりますので試合をさせてください!』って、何かあったらどう責任を取るつもりだったのでしょう(笑)?中身はないくせに責任感だけは強かったように思えます。
運のツキ
高校生活も終盤、普段からの行いがよかった(?)のでしょう、上位5名まで与えられる医科大学の推薦枠を手に入れたのです。後は悠々自適という状態で、なんとあの高校生アメリカ横断ウルトラクイズの第1回に出場することに!他のメンバー白鳥君、中村(昌)君も推薦が決まっており、もうアメリカへ行くだけ・・・のつもりでしたがそうは問屋が卸してくれませんでした。
後楽園球場(当時はドームじゃなかった!)での第1問目で見事敗退!この先待ち受ける試練を暗示しているかのようで・・・。
その懸念は現実のものとなるのです。夏休みが明けるとナント、医科大学への推薦が急に見送られることに!ある科目の成績が推薦のための内規に及ばないことが判明したということでした。もう9月の段階ですよ!まさに天国から地獄・・。普段からの行いが悪かったのかぁ。それからはもう必死です。志望校を選ぶことから始まり、本気で大学を受けるのだと腹をくくりました。捨てる神あれば、拾う神あり!いくつか受験したなかで1番先に合格が決まった日本歯科大学に入学することとなったのです。
私の父の話になりますが江古田で40年不動産業を営んでいます。ただ話を聞くともともとは医師を目指していたそうです。しかしながら戦争でその夢を断たれたのでした・・。そんな父から『どんな仕事でもいいが、人様の役に立つ仕事につけ!』と小さいころから聞かされていた私が医学の道を目指すことになったのは当然のことかもしれません。そう、ここから歯科医師への第一歩を踏み出したのです。(おばさん先生との因縁か?笑) |